前回の続きです。
営業所長との、傷病手当受け取らない、退職手続きを勧めてくださいと話した面談後、次週に手続きをする事になりました。
これで綺麗に終われると思いました。
家に帰り夜までぼーっとしていると営業所長から今からもう一度話せないかとLINEがきました。
来週手続きをするのでその時でお願いします。というと
インターフォンがなりました。カメラには支社長と営業所長がたっていました。出たくはありませんでしたが、流石にお二人を待たせるわけにはいかないので、急いで外に出ました。
すると、両親がいました。支社長と営業所長と4人で立っていました。私は状況が理解できませんでした。
コロナ禍で両親にもずっと会えていなかったので2年半ぶりの再会でした。
母が泣きながら「生きててよかった」と言いました。
おそらく面談で異変を感じた営業所長が両親に連絡したのでしょう。
支社長と営業所長はその場で帰りました。
両親は私の部屋に入ってきました。。机の上には大量の薬がありました。
両親は実家に帰ってきなさい。と言いました。
私は、それではまた親孝行の逆になるとか、頭の思考が追いつかず、両親を追い返してしまいました。
次の日は一日中ぼーっとして、その次の日は病院の通院日でした。
もう死ぬには十分な薬があったかもしれませんが、念の為病院へ行きました。
病院で先生と話していると、何かが弾けたように、今の現状を全て話してしまいました。
それまで薬は全て飲んでいると嘘をついていました。
先生の方から再び両親に連絡がいき、私は地元に帰ることになりました。
実家では処方された薬をしっかり飲み、寝て、3週間ほどが経ちました。
死ぬ事以外にも頭が回るようになっていきました。
何もしないのも両親に申し訳がないので、家の掃除や夕ご飯を作りました。
料理をしている間は全てを忘れる事ができました。
日中頭が働く時間も多くなりました、が、依然死んだ方がいいという気持ちは完全には消えていません。
この気持ちが消えることがあるのか、適応障害に完治があるのかまだ私にはわかりません。
ただ、何かに没頭すると時間を忘れられて薬を飲まずに過ごせるので、こういったブログを書いてみることにしました。
人目に触れるかはわかりませんが同じ境遇になった方、料理が好きな方がこのブログをいつか読んでくれることを楽しみにしています。
大変長くなりましたが、以上がブログを始めるに至った経緯と現状です。
長文失礼しました。言葉たらずで申し訳ないです。